サヨナラ、月夜

──月が、見えた。





「着信ナシ。メールもナシ」

沈黙を守ったままの携帯。
折りたたんでバッグにしまいこむ。


いつからだろう。
付き合ってるはずなのに、目も合わなくなった。
私は彼の“彼女”のはずなのに、彼のぬくもりを思い出せなくなった。

「バッカみたい」

わかってる。わかってるんだ。
もう、とっくに終わってる。
私と彼を繋ぐものは何ひとつない。
だけど……せめて、“さよなら”くらい言わせてほしかった。




私の家は、海のすぐそばにある。
だから私は何かにつけて海へと足を運ぶ。
海を見ているのが好きだった。
何故だか誰かが隣に寄り添っていてくれるような気がした。

「どうしたらいいのかな、私」

仕事が終わり、一度家に帰ってからいつものように海へと出かける。
夜の海はとても寂しくて、今の私のやりきれない気持ちを助長する。

「神崎さん?」

風の音に混じって、私を呼ぶ声が聞こえた。
振り返った先には、どこかで見たような顔。

「えぇっと……」
「日向。営業の」
「あぁ、日向さん」

そう言えばそんな人がいた気がする。
というくらいの記憶しかないのが申し訳ないところだ。

「何してるんですか? こんなとこで」
「いえ、別に」

何かをしていたわけじゃない。
ただ、そこにいただけ。

「家、この近くですか?」

その質問に私は頷き、近くの家を指さす。
今いる場所と目と鼻の先に私の家がある。

「へぇ。そうなんだ」

眼鏡の向こうの目が細くなる。
日向さんって、すごく柔らかく笑う人なんだな、と思った。
いかにも好青年という感じだ。

「日向さんは、この近くなんですか?」
「いや、俺はここからはちょっと離れてますね」

じゃあ何故ここに?
私の言いたいことがわかったのか、日向さんはまたにこりと笑う。

「すぐそこに俺のじいちゃんが住んでるんですよ。
一人で暮らしてるから、たまに様子見に来てるんです」

そうなのか、と心の中で呟く。
一度も会ったことはないはずだけれど。

「俺、ここでよく神崎さん見かけましたよ」
「え?」
「じいちゃんちから帰るときに。いつも一人で海見てたでしょう」

なんだか急に恥ずかしくなる。
自分の知らないところで自分を見ていた人がいたなんて。

「いつも、抱きしめたいと思ってた」
「えっ?!」

聞き間違いだと思った。
目を見開けば、日向さんは一歩私に近づく。
無意識のうちに、一歩後ずさった。

「あ、後ずさりましたね」
「だ、だって……」

言い訳しようとした瞬間、腕を引かれる。
気がつけば日向さんの腕の中にいた。

「ちょ、日向さん!!」
「俺じゃダメ?」

耳元で、日向さんの声が聞こえる。
年甲斐もなく心臓がバクバクしていた。

「赤橋さんでしょ?」

その名前を出されて、泣きたくなる。
赤橋幸也。
数ヶ月前までは確かに自分の彼氏だった人。
今も同じ部署で働いているけれど、話すことはほとんどない。

「あの人がマーケティング部の笹垣さんと付き合ってるって、知ってるんでしょう?」

笹垣美優。
私と同期のその人は、可愛らしくておしとやか。
だけど仕事はしっかりこなすという、まるでマンガの世界の住人のような人。

「私とは、隠れて付き合ってたくせにねぇ」

日向さんの腕の中で私は自嘲する。
二人が付き合い始めたのは、二ヶ月前。
そのことはすぐに私の耳にも届いていた。

「赤橋さんのことなんか忘れて、俺にしときません?」
「私、日向さんの名前すぐに出てこないような奴ですよ?」
「あはは。いいですよ、それくらい」

抱きしめられたまま、私は彼と会話を続ける。
冷たい風が吹いているのに、彼に包まれた体はとても温かい。
久しぶりに感じる、誰かに抱きしめられたときのぬくもり。

「わかってたんです。もう無理なことはわかってたの。
でも、さよならすら言わせてくれないなんてずるいでしょう?
けじめくらいつけさせてくれてもいいのに……」

元に戻りたかったわけじゃない。
ただ、けじめをつけたかった。
次へ進むきっかけが何かほしかった。

「神崎さん、これはチャンスだと思いませんか?」
「……そうですね」

かじかんだ手。
そっと彼の背中に添える。

「あ、月……」

日向さんの肩越しに、月が見えた。
ふと、幸也の顔が浮かぶ。

「さよなら、幸也」

小さく呟くと、日向さんの顔が近付いて、唇が触れた。




月夜のサヨナラ。
小さな小さな私の声は、あいつには届かないけれど。
これが、私のけじめだから。





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