最後の刻

「ね、抱きしめてくれる?」
「え?」

彼女は笑って僕を見上げた。
だけどその笑顔は、僕の好きな笑顔じゃなかった。

「最後にもう一度だけ、貴方のぬくもりを感じたい」

最後。
彼女は確かにそう言った。
最後。
終わり、なのか?

「嫌だ」
「どうして?」

だって抱きしめたら、終わってしまうんだろう?
そんなのは嫌だ。

「そんなに、私が嫌い?」

彼女はまた、僕の好きな笑顔じゃない笑顔を見せる。
悲しそうな笑顔。
無理矢理作った笑顔。

「好きだから……嫌だ」

そう言えば、彼女は目を伏せる。
目の前にいるのに、彼女の存在はひどく遠い。

「いつもはなかなか言ってくれないのに、こんなときに言うのね」
「え?」
「ずるい人」

そっと彼女は体を倒し、僕の胸に額をつける。
抱きしめようとしたけれど、腕が動かなかった。

「私も貴方が好きよ」
「じゃあ、どうして?」

最後なんて言葉、聞きたくなかった。
僕たち二人には無縁のものだと思っていた。
いや、そう信じていたかった。

「これ以上、私を醜い人間にさせないで」
「どういうこと?」
「それがわからないのなら、やっぱり一緒にはいられない」

彼女が醜い人間? 一体どこが?
彼女ほど綺麗な心の持ち主を、僕は知らない。

「貴方と一緒にいればいるほど、私は醜くなっていくの」
「それは、僕の所為?」

尋ねれば彼女は首を横に振る。
じゃあ何故?

「貴方が悪いんじゃない。私が悪いのよ」

わからない。
僕にはわからない。
わからないから、今も腕は動かない。

「貴方のことが好きよ。貴方が私を想っていてくれることも、知ってるわ」

そう、僕は彼女を想ってる。
他の誰よりも彼女を大切に想っている。
これからもずっと、それを変える気はないのに。

「だけどダメなの」
「何がダメなの?」
「私が弱いから……」

答えになっていない答えを彼女は呟く。
僕の胸に額を押し当てたまま。

「お願い抱きしめて。最後に貴方のぬくもりを感じさせて」
「ダメだ。最後になんか出来ない」
「お願いよ。笑って、別れさせて」

笑う?
どこが笑ってるんだ。
今日の彼女はまだ一度も笑ってなんかいやしない。

「僕の気持ちは無視するの?」
「そうよ。無視するの。貴方の気持ちも、私の気持ちも」

それは何故?
そうすることで誰が幸せになれるの?

「君の本当の気持ちを聞かせて」
「貴方が好き。それが唯一の真実よ」
「じゃあ何故……」

彼女は僕が好き。
僕だって彼女が好き。
一体なんの問題が? どこに、理由が?

「私たちは別れるべきだわ」
「そんなの勝手に決められたくない」

お互いに想い合っているのに別れるべきだなんて、そんなバカなことない。
絶対にあってたまるか。

「お願いよ。私の最後の頼みを聞いて……」
「聞けない。聞けるはずがない」

こんなにも、想っているのに。
その想いは絶対に手放せない。

「このまま貴方と一緒にいたら、私はいつか壊れるわ」

彼女が壊れる? どうして?
それはやっぱり、僕の所為なのか?

「そしていつか、貴方も壊すわ」

彼女に壊されるのなら本望だ。
そう本気で思った。
彼女になら構わない。
どこまでだって一緒に行くよ。
たとえそれが地獄であろうとも。

「貴方に嫌われたくないの。貴方に想われたまま別れたいの」
「どうして僕が君を嫌いになるって決め付けるんだ」

この想いは永遠なのだと、ガラにもなく思っていたのに。
これから先もずっと、僕の隣では君が笑っているんだと思っているのに。

「君と一緒ならどうなったって構わない」
「私が構うのよ。お願いよ。お願いだから……」

彼女は泣いているだろうか。
顔が見えないこの状態では、彼女の表情を読み取れない。

「ちゃんと話してくれなきゃわからない」
「話したくないわ。もう何も」

そう言って彼女は僕の背中に腕を回した。
けれど僕はやっぱり腕を動かすことは出来なかった。

「僕から、離れたいのなら……」

喉がカラカラだった。
どうやって声を出しているのかわからない。

「僕から、離れたいのなら、僕を嫌いだと言って」
「……そんなことを、私に言わせるの?」
「でなきゃ、納得出来ない」

君は僕を「好き」だと言ってくれるのに。
それなのに別れるなんて出来ない。

「貴方は残酷ね。……違うわね。残酷なのは、私ね」

そう、残酷なのは君。
僕にこんなことを言わせる君が、一番残酷だよ。

「貴方のことが……」

彼女の腕に力が入った。
体温を感じる。

「貴方のことが、嫌いよ」

静かな部屋の中、彼女の声がやたらと響いた。
自分で言えと言ったくせに、僕の頭は彼女の言葉を理解出来ていなくて。

「貴方が嫌い。だからもう、一緒にはいられないわ」

そう言って、彼女は僕から離れた。
彼女は泣いていなかった。
またさっきの僕の好きな笑顔じゃない笑顔で笑う。
あぁ、最後に見る君の笑顔が、そんな歪んだ笑顔だなんて。

「さようなら、大嫌いな貴方」

彼女は最後に僕にとどめを刺した。
だけど気のせいだろうか。
その「大嫌い」が「愛してる」に聞こえるのは。

「気のせい、かな」
「なぁに?」
「いや、なんでもない」

僕は一歩前に踏み出すと、彼女の細い体を抱きしめた。
最後の、彼女のぬくもり。

「さようなら。大嫌いな君」





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