私が貴方に初めて触れたとき

雪はやっと溶けたのです



触れた指先 伝わる温度




「流香(るか)、またこんなとこで寝てたの?」

そんな声が頭の上からして、流香は目を開けた。
ぼやける視界。
徐々に開けていくそこに見えたのは、幼馴染の顔。

「あぁ、サチ。おはよう」
「おはようじゃないでしょうが。もう昼休みだよ」

サチにこつんと頭を小突かれても、流香はただぼーっとするだけ。
まだ眠りから完全に覚醒しきれていない。

「そんな座ったままの格好で寝てて、体痛くない?」
「別に、平気」

ここは屋上。
本来なら生徒は立ち入り禁止の場所。
だけど実はここの鍵は壊れている。
それを知っている者は、昼休みになるとここを訪れる。
現に流香やサチ以外にも、ちらほらと人影が見え始めた。

「よぉ、流香。お前また授業サボってたな?」

サチの肩越しに一人の男の顔が見える。
目を細めてその姿を捉える。
いや、そんなことをしなくても声をかけてきた人物が誰なのかくらい、流香はわかっていた。

「いいのよ、私は越野と違って優秀だから。授業なんて出なくたって問題ないわ」
「悪かったな」

怒ったように見せて越野は笑った。
そして流香の目の前に座る。
サチも流香の隣に座った。
この3人は、いつも決まってここで昼食をとる。

「流香、お前バイトきついんじゃないの? 体平気かよ」
「もっと言ってやって、越野君。私がどれだけ言っても聞かないんだから」
「仕方ないでしょう。うちはお金ないんだから」

流香は現在、バイトを3つ掛け持ちしていた。
毎日毎日ひたすら働く。
そして学校で睡眠時間を補っている。

「だからってなぁ? お前がそこまで働かなきゃいけないのはおかしいだろう」
「越野にはわかんないよ」

流香の家庭は母子家庭だ。
母と、流香と、流香より3つ年下の妹の3人で暮らしている。
よくある話だが母はあまり体が丈夫ではなく、満足に働くことも出来ない。
そこで、流香が稼ぎ頭になるしかなかった。
流香はそのことを別になんとも思っていない。
母と妹が大切だし、自分の力でどうにかなるのならどうにかしたいと常日頃思っている。

「おばさんがもう少し、働ける体だったらな」

越野の呟きに流香はふっと笑う。
越野やサチにすると、流香を“こんな目に遭わせている”両親が許せないらしい。
二人が自分を大切に想ってくれている気持ちは、流香も十分わかっている。
だけど流香自身は両親に対してそんな感情は一切持っていない。

「私、生まれてきたの」
「え?」

流香の唐突な言葉に、越野とサチは首を傾げる。
それまでボーっとしながらサチの作ったお弁当を口に運んでいた流香は箸を止めて、空を見上げた。

「生まれてきたのよ。もう、それだけで十分なの」

父と母の間に生まれた。
可愛い妹も出来た。
流香にはそれだけで幸せだった。
それ以上を望むことはしなかった。したくなかった。

「流香? まだ、忘れられないの?」

サチのその言葉に、流香はただ微笑んだ。
“忘れられない”んじゃない。
それは決して違う。
“忘れようとしていない”んだ。

雪のように白く儚い、彼のことを。








「今日からバイトに入る白雪相馬(しらゆきそうま)だ。
流香、面倒見てやって。年はお前のが下だけど、ここで一番働けるのお前だから」

彼、白雪相馬と出会ったのは半年前の冬の日だった。
白く透けるような肌をした彼は、どこか儚げだった。
本当に、雪のような人だと、初めて出会ったときに流香は思った。

「ルカ? どういう字を、書くの?」

これまた透き通るような声で、白雪相馬は流香に問いかけた。
流香は微笑んで答える。

「流れる香り」
「そう、綺麗だね」

白雪相馬も微笑む。
その微笑みこそ綺麗だ、と流香は思った。


それから流香と白雪相馬はバイトを通じてその仲を深めた。
流香は自分の中にある気持ちが恋心だということはすぐに認めていたけれど、決してそれを表には出さなかった。
白雪相馬も、そうしているようであった。
二人はお互いを想い合いながら、絶妙な距離を保ち続けた。

「白雪さん、顔色悪いけど大丈夫?」
「あぁ、平気。流香ちゃんこそそんなに毎日バイトして平気?」
「私は別に。もう慣れたし。これしかすることないし」

その頃の流香は、自分が送っている生活に特別何も感じていなかった。
自分が働かねば生きていけない。だから働く。ただそれだけだった。

「なんだか悲しいことを言うね、君は」
「そう、かな?」
「うん。そんなふうに毎日を過ごすのは、悲しいよ」

彼に言われると本当にそんな気がした。
不思議なもので、それから途端に、流香は自分の生活に虚しさを感じるようになってしまったのだ。
毎日学校に行って、働いて。
ただそれだけを繰り返す毎日。
そこに見出すものは何もない。

「白雪さん、白雪さんはどうしてこのバイトを?」

いつか聞いてみたことがあった。
そしたら彼は笑って答えた。

「働くと言うことがどんなものなのか感じてみたかった。それだけ」

その答えに、流香は首を傾げる。
白雪は、流香より10歳年上だった。
普通に働いていてもおかしくない年齢だったのだ。
なのに彼は、流香の働く店に、バイトとしてやってきた。

「働いたこと、ないの?」
「うん。一度も」

彼の透き通る肌を見ながら、流香は思った。
この人は、一体どういう人なのだろう、と。
彼のことは何も知らない。わからない。
わかっているのは、白雪相馬という名前と、10歳年上だということ。
そして、今までに一度も働いたことがないということだけ。



「流香ー、今日から白雪来ないからよろしくなー」
「え?」

それはあまりに突然だった。
そんなこと、彼からは一言も聞いていない。
いや、もちろんそういうことを報告しあう仲でもなかったが。

「店長、どういうことですか?」
「あー、あいつな……ん。まぁ、病気で」
「病気?」

なんとなくそんな気はしてた。
あの白い肌は異常だと、密かに思っていた。
だけど、そんな素振りはひとつも見せなかった。

「俺の親父の知り合いの息子なんだけど……もうずっと長い間病院のベッドの上で過ごしてたらしくてな」

店長のその話は、ひどく現実味がなかった。
確かに、彼はそんなような雰囲気がする人間だった。
だけど、でも。

「手術すれば治る可能性もある。だけど、5%にも満たない確率だ。
あいつはその確率に賭けることにした。
だけどその前に、どうしても一度だけ普通に働いてみたいって言い出したんだ」

彼は言った。
働くってことがどんなものか感じてみたかった、と。
自分と同年代の男たちは、きっと普通に働いている。
自分だけが、取り残された気分だったんじゃないだろうか。

「それで俺んとこに話がきた。まさかホントに働くとは思わなかった。
毎日ヒヤヒヤしてたよ。突然倒れるんじゃないか、ってな」

彼は、本当に普通に、仕事をしていた。
確かに動き回ったりすることはなかったけど、でも確かに、正確に仕事をこなしていた。

「でまぁ、約束の日が昨日まででな。今日からはまた病院のベッドに逆戻りだ」
「手術は……?」
「2週間後」

白い病室に、白い肌をした彼が横になっている姿が浮かんできた。
何故か、思い浮かんだ彼は微笑んでいた。

「そうなんだ……」
「流香、あいつのこと好きだったんだろ?」
「えっ」
「見てりゃわかるよ。あいつも、そうだったみたいだしな」

そんなに、自分の気持ちはわかりやすかっただろうか。
彼はきっと気付いているとは思ったけれど。

「手術、成功するように祈っててやれ。結果は俺から教えてやるから」

そう言われて、流香は真剣に祈った。
手術が成功するように。
彼とまた一緒に働ける日がくるように。



けれどその祈りは、雪に覆い隠されてしまったようだ。

「えっ、昏睡状態……?」

自分の耳を疑った。
ただただ彼の無事を祈り続けていたのに。

「心臓は動いてる。息もしてる。でも、目を覚まさない」
「そんな……」

彼の儚げな笑顔を思い出した。
あまりの衝撃に涙も出てこない。

「流香、ひどいこと言うけど、あいつのことは忘れろ」

それ以来、店長は白雪相馬の話をしなくなった。







あれから半年。
流香は彼に会ってはいない。
彼は今も眠り続けているだろうか。
真っ白な病室の中で。

「生まれてきた意味、生きる意味、教えてくれたのはあの人だった。
だから私は、忘れない。忘れられるわけがないのよ」

流香の言葉に越野とサチはただ黙って目を閉じる。
流香の気持ちが届けばいい。
今も恐らく眠り続けているであろう人へ。
そしてその気持ちが届いたら、彼が目を覚ましてくれたらいい。

「雪が降ったら、会いに行くって決めてるのよ」

輝く太陽を見上げて流香は呟いた。








それからまた時は過ぎて、季節は冬へと移り変わった。
流香と白雪相馬が出会って、1年が過ぎた。

「流香、今日……」
「うん、降りそう」

教室の窓から流香とサチは空を見上げる。
どんよりとした雲。
凍るような寒さ。
雪が降りそうな気配。
天気予報では、午後から降ると言っていた。

「行くの?」

サチの言葉に、流香は笑って頷いた。

「行く。行ってあの人の雪を溶かしてくるの」

彼は今も雪の中にいる。
この1年ずっと。
流香はずっと待っていた。
彼に会いにいけるきっかけを待っていた。
自分の中でそっと決めた。
雪が降ったら会いに行こうと。
そして今日、恐らく雪は降る。




「店長!! 白雪さんの病院教えて!!」

滑らないように気をつけながらも、流香は店に飛び込んだ。
開店前の店では、店長が一人煙草を吸っていた。

「白雪の?」
「今から行ってくる!!」
「流香、お前あいつのこと忘れてなかったのか……」
「忘れるわけがないでしょう!!」

そうして流香は店長を急かす。
流香の勢いに押され、店長は病院の場所を告げた。
そして流香が店を出るときに。

「流香、頑張れ」

ただ一言、そう言ってくれた。
流香はそれに笑顔を返し、店を出た。

外は白。
降り始めた雪は、あっという間に街の景色を変えた。






「白雪さんっ!!」

病室のドアを思いっきり開けた。
ベッドの脇に腰掛けていた女性が驚いて立ち上がる。

「貴方は……?」
「あっ、すいません。私……」
「流香、さん?」
「えっ、なんで……」

名乗る前に自分の名前を言われた。
そんなことは初めてだ。
困惑した流香は、次の言葉が出てこない。

「そう。貴方が流香さんなのね? 初めまして。私は相馬の姉です」

彼の姉だと言うその人は、彼にとてもよく似ていた。
何が似ているって、その儚げな雰囲気だった。

「貴方のことは、相馬から聞いてます。どうぞ、こっちへ」

促されて、流香はベッドへと歩み寄る。
ドクン、ドクンと、心臓が大きな音を立てているのがわかる。

「相馬? 流香さんよ?」

そっと彼の頬に触れた彼女は流香に場所を譲る。
流香は彼のベッドの横に立つ。
久しぶりに見る彼がいた。
あの頃のままに真っ白な肌をして。

「白雪さん……?」

流香はそっと彼の手を取る。
彼の指に自分の指を絡める。
温かい。
彼は生きてる。ちゃんと、生きてる。

「こうして貴方に触れるのは初めてですね。あったかい……」

彼の手を取ったまま、自分の頬へ持っていく。
流香より大きく、だけど痩せ細った手のひらが流香の頬を包む。

「会いに来たの。やっと、会いに来れたの。だからお願い。目を開けて……」

一筋の涙が頬を流れる。
それはゆっくりと流れ落ち、彼の手の平に吸い込まれる。
瞬間、その手が微かに震えた。

「白雪さん?!」

確かに感じがその動き。
もう一度確かめようと彼の手に意識を集中させる。
ピクッと、もう一度その手を動く。

「相馬?」
「白雪さん!! 白雪さん!!」

流香は必死に彼を呼んだ。
戻ってきて。
目を覚まして。
祈りをすべて、彼の名前に込めた。

「流香、ちゃん……?」

小さな小さな声が聞こえた。
驚いて彼の顔を見れば、その目はうっすらと開いている。
流香の姿を、捉えている。

「白雪さん!!」



「あぁ、僕、生きてるんだね」





そのとき、さっきまでどんよりと曇っていた空に、光が射した。





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