10

「あんた? 柊啓輔の娘って」

1年の夏。
本当ならもう二度と聞きたくない人間の名前が耳に入って、雨宮は途端に不機嫌になった。
声の主を振り返ってみると、いかにもギャルといった感じの女が立っていた。

「……だったらなんなの」

もう何度目だろうか。こうして声をかけられるのは。
クラスの人間は自分とは距離を置くようになった。
一度ぶち切れたことがあるから。
でも他のクラス、違う学年の人間からは、未だにこうして声をかけられることがあった。

「ふぅーん。大したことないじゃん」
「用がないならもう行くけど」
「ふん。話に聞いてた通り生意気な女」

どう聞いているのだろうかと雨宮は一瞬思ったが、すぐに想像できたのでやめた。
そしてこの場にこれ以上いてもろくなことにならないことも、すぐにわかった。
何も言わず、その場を離れようとする。

「ちょっと待ちなよ」

が、こうして呼び止められる。
無視して行けばいいのだが、ついつい立ち止まってしまう自分に嫌気がさす。
だがそれは別に恐怖で立ち止まってしまうわけではない。
ぶっ飛ばしたい衝動に駆られるのだ。柊啓輔の名前を口にする者のことを。

「あたし3年だよ? わかってる? 先輩に対する礼儀ってもんがないわけ? あんた」

化粧を塗りたくった顔で睨まれる。
雨宮はぐっと拳を握り締めた。

「あんたみたいな奴にはさぁ!! 先輩のあたしがちゃんと教育してあげなきゃいけないと思うんだよねっ!!」

そう言って、女は右手を振り上げる。
それと同時に雨宮は右手の拳に力を込めた。
が。

「おいおい。こんな場面に遭遇するとは俺もツイてないな」

そんな暢気な声が聞こえてきて、雨宮と女は動きを止める。
二人の視線は、暢気な声の主に集中した。

「斉藤、お前下級生いじめかよ」
「なっ、そんなんじゃねぇよ!! 棚橋のくせに口出しすんな!!」
「お前なぁ、呼び捨てにしてんじゃねぇよ」

雨宮は、棚橋を見ながら思った。
こいつは一体誰だ、と。
見たことがなかった。
白衣を着ているところからすると、理系の教師だろうか。

「んで? こっちは1年か?」

棚橋の視線が雨宮を捉える。
この男は自分を知らないのか、と雨宮は何故かほっとした。

「あんた知らねぇの? こいつあれだよ。俳優の柊啓輔の娘」
「あぁ、なんか騒いでたな、そういえば」

大して興味はないとでも言うように棚橋は呟く。
雨宮は黙ったままじっと棚橋を見ていた。

「でもまぁ父親が誰であろうと俺には別に関係ねぇ。
おい1年。お前こいつに何もされてないか?怪我は?」

棚橋はあくまで淡々と、雨宮に声をかける。
雨宮は訝しげな表情で棚橋を見上げ、頷いた。

「そうか。ならいい。おら斉藤。お前もさっさと教室戻れ」

棚橋に促され、斉藤と呼ばれた3年生は教室へと戻っていく。
残された雨宮は、さっきのままの表情で棚橋を見ていた。

「あんた、誰?」

予想外の質問に、棚橋は一瞬固まる。
まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかった。

「あぁー……まぁ、俺は授業教えたりするわけじゃねぇからな。
知らなくても無理はねぇか。棚橋陽一。この学校の保健医だ」

そう言った棚橋の笑顔。
どこか子供っぽいその笑顔は、荒れていた雨宮の心をほんの少しだけ癒した。
雨宮自身は、それに気付いてはいなかったけれど。

「保健医ってことは、保健室にいるってこと、か」
「あ? あぁ、まぁな」
「わかった。行く」
「はぁ?」

今度は棚橋が怪訝そうな表情に変わる。
雨宮はお構いなしに保健室に向かって歩き出した。
行ったことはないが、確かこっちで合っていたはずだ、と曖昧な記憶を辿って。



「保健室か。盲点だった」

なんとか保健室に辿り着いた雨宮は、部屋を見渡して呟いた。
後から追いかけてきた棚橋も部屋の中に入る。

「おい、お前何やってんだ。さっさと教室戻れよ」
「イヤ」

即答する雨宮。
そして向かうは綺麗にセットされたベッド。

「いや、おい、お前……」
「次の授業数学なの。あたし数学嫌い」

そう言って雨宮はさっとカーテンを閉めた。
それ以後、雨宮の声は一切しない。
唖然とした棚橋は深い溜息をつき、

「厄介な奴と出会ってしまった……」

頭を抱えて呟いた。





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