「あーまーみーやー」

とてつもなく低い声が保健室に広がる。
その声でベッドの上ですやすやと眠っていた雨宮は目を覚ます。
ゆっくりと体を起こし、目をパチパチさせた。
しっかりとマスカラでコーティングされた睫毛に目が行く。

「あぁ、棚橋。お帰り」

寝惚けた声で雨宮は呟く。
棚橋は盛大に溜息をひとつ。

「ここのベッドはなぁ!!」
「具合が悪い人が休むためのもの、でしょ。もう聞き飽きた」

ふわぁ、と欠伸をした雨宮は脱いでいたブレザーを羽織る。
そして立ち上がり、戸棚からコーヒーカップを取り出し、コーヒーを淹れた。

「おい、何さも当然かのようにコーヒー飲もうとしてんだ。
っつうかそのコーヒーカップ、いつの間に持ち込んだんだ」

雨宮が持っているコーヒーカップは、以前のように棚橋の物ではない。
棚橋のコーヒーカップは冷めたコーヒーが入ったまま、机の上に置かれている。

「だって棚橋の使うとうるさいから。持ってきた」
「持ってきた、じゃねぇよ」

また、溜息。
よく溜息1回につき幸せがひとつ逃げると言うが、一体棚橋の幸せはいくつ逃げていることやら。

「でー? またバイトで寝不足かよ」

棚橋は自分の席に座り、冷めたコーヒーに口をつける。
雨宮はベッドに腰掛け、頷いた。
その顔はまだひどく眠そうだ。

「お前なぁ、いくらお母さんの店だからってお前はまだ未成年なんだぞ?」

雨宮がバイトをしているのは、母が経営するバーだ。
それなりの集客数があるその店では、雨宮が看板娘のようになっている。
従業員は母と母の弟、つまり雨宮にとっては叔父に当たる人物だけ。

「んな心配しなくても大丈夫だよ。厄介な客は義昭叔父さんがどうにかしてくれるし」
「そういう意味じゃねぇっての」

棚橋が更に雨宮に対して説教を続けようとしたとき、保健室のドアが開いた。
雨宮はそちらを気にする様子もなくコーヒーを飲む。
入ってきたのは、小柄な少女。

「あ、雨宮先輩……」

1年生である彼女は雨宮に気付くと小さく声を上げる。
雨宮の存在はこの学校のほとんどの生徒が知っている。
1年生の少女の声で雨宮は顔を上げた。

「どうも。何チャン?」
「えっ、あの、深津奈々子です」

少女はしゃきっと背筋を伸ばして答えた。
その様子を見て雨宮はふっと笑う。

「奈々子チャンね。どうしたの? 体調悪い?」
「あ、いえ、ちょっと生理痛ひどくて……」

言われて見れば、彼女の顔色はひどく悪い。
その会話を聞いた棚橋はすっと立ち上がり、戸棚から薬を取り出した。

「あー、そりゃ辛いね。棚橋、薬。ありがと」

雨宮が薬、というのと同時に棚橋から雨宮へ薬が手渡される。
棚橋に礼を言って、雨宮は立ち上がった。

「はい、とりあえず薬飲みな。そんでここでしばらく寝る」

深津奈々子のためにベッドを開けた雨宮は、コップに水を入れて彼女に手渡す。
棚橋は二人の様子をじっと見ている。

「あ、ありがとうございます。棚橋先生、いいですか?」
「おー。いいぞー」

棚橋の許可も出て、深津奈々子は薬を飲み、すぐベッドに横になった。
雨宮はカーテンを引き、深津奈々子から受け取ったコップを洗った。

「手際いいよな、お前」
「あ? あぁ、お店で慣れてるから」

コップを布巾で拭き、戸棚に戻す。
そして壁に立てかけてあるパイプ椅子を広げた。

「まだ居座るつもりか。寝てる生徒いるのに」
「棚橋が寝てる奈々子チャンを襲わないか監視」
「アホ。高校生なんか範疇外」

棚橋のその言葉に、雨宮の胸が小さく痛む。
それは、本人すら気付かないほど小さな痛み。

「何、熟女が好きなの?」
「なんでそうなる。っつうか静かにしろ」

そう言って棚橋は自分の仕事に戻る。
雨宮は残ったコーヒーを飲む。
しばし訪れる静寂。

「……ね、棚橋」
「なんだよ」
「あたし、奥のベッドで寝ていい? やっぱまだねみぃーわ」

雨宮の言葉に棚橋はまたひとつ溜息をつく。
そして顎をくいっとベッドの方へ。
勝手にしろ、と。

「サンキュ」

そうして雨宮はコーヒーカップを片付け、深津奈々子が眠るベッドの隣のベッドへと潜り込んだ。
深津奈々子が雨宮の存在にやや緊張しながら眠れずにいる隣で、雨宮は数秒で眠りに落ちた。





Copyright (C) 2008-2011 miki All Rights Reserved.