「雨宮。そこはいつからお前の席になった」

職員会議を終えて保健室に戻ってきた棚橋は、ドアを開けた瞬間に溜息をついた。
鼻に届くコーヒーの香り。
それは棚橋が自宅からわざわざ持ってきたもの。

「あー? 数分前からだよ」

雨宮と呼ばれた少女は棚橋の席に座って優雅にコーヒーを飲んでいる。
少女は確かにこの学校の制服を着ている。
間違いなくここの生徒だ。
だが、今は本来授業中。

「勝手に俺の席に座るな。コーヒー飲むな。授業サボるな」

仮にも学校という場所に勤める者なら、授業をサボっていることについてまず注意した方がよさそうなものだが。
棚橋はそれを一番最後にする。
彼女がここに来るのは、ほぼ毎日のことだったからだ。

「ケチくさいこと言うなよ。減るもんじゃないし」
「っつうかそれ俺のカップじゃねぇか。お前なぁ」
「あ゛ー、説教なら勘弁」

棚橋の言葉を遮って、雨宮は立ち上がり、コーヒーカップを持ったままベッドへと移動する。
ベッドに腰掛け、コーヒーを啜った。
その様子を見て棚橋はまたひとつ溜息。

「ねぇ棚橋ー」
「呼び捨てにすんな」

棚橋はついさっきまで雨宮が座っていた椅子に腰を下ろす。
雨宮の呼びかけに対しては彼女に背を向けたまま一言。

「棚橋さー、もう29でしょ? 結婚しないの?」
「あぁ?」

棚橋陽一、29歳。独身。
現在女子校にて保健医をやっている。
彼女は……募集中。

「あんたそのだっさい眼鏡外せば結構いい顔してんだし、女くらい作ろうと思えば作れるでしょ?」

そう言われて棚橋は少しずり落ちた眼鏡に指をかける。
くいっと上に上げて、机の上の書類に目を落とした。

「まぁダサいのは眼鏡だけじゃないけど」
「うるせぇよ」

確かに彼は、素材は悪くなかった。
悪くないのだが……いかんせんセンスと言うものがない。
雨宮が言った眼鏡にしてもそうだが、まるで似合っていない。
言ってしまえば古臭い。
服装もパッとせず、髪の毛もボサボサだったりする。

「俺は結婚する気は特にないんです」
「なんで?」

答えれば、またすぐに返ってくる言葉。
いつからか二人にとってこれは当たり前の光景になっていた。

「めんどくさいから」
「あー、あんたらしいわ」
「だからうるせぇっつうの」

まるで友達のように、二人は会話を進める。
棚橋は最初に言ったきり雨宮に授業に戻るようには一切言わない。
ただ、だらだらとした会話に付き合う。

「でもわかる。あたしもイヤ、結婚」
「へぇ。なんで?」

棚橋はくるりと椅子ごと体の向きを変える。
手に持ったペンをくるくると回した。

「うちの親、離婚してんじゃん。そりゃあもう散々だったわけ。
あたしが中学んときに別れたんだけど、よくそこまでもったなって感じ」

淡々と、特になんでもないように、雨宮は話す。
現に彼女は両親の離婚については悲しいとか、そういう感情を持ち合わせていなかった。
むしろ、両親が別れてほっとしたくらいだ。

「結婚してもあんなふうになるならさ、しない方がマシだよ」

両親が離婚した経験を持つ子供は、二通りに分かれることがほとんどだと言う。
両親の過ちを見てきたから、自分は絶対に結婚しないと誓う者。
両親の過ちを見てきたからこそ、自分は温かい家庭を築きたいと願う者。
雨宮は前者のようだ。

「でも、いつかお前も大人になれば結婚したいと思う奴に出会うかもよ?」

雨宮の話を聞いていた棚橋はにっと笑い、体の向きを元に戻した。
そんな彼の背中を雨宮はじっと見つめる。

「お前とご両親は違うんだからさ」

雨宮に背を向けたまま、棚橋はそう言ってまたペンを動かし始めた。
雨宮はすっと立ち上がり、水道へ向かう。
今まで使っていたコーヒーカップをそこで簡単に洗うと、また新しくコーヒーを淹れた。

「ほらよ」

そう言って棚橋のテーブルにコーヒーカップを置く。
棚橋は書類から顔を上げ、少し驚いたように雨宮を見た。

「珍しいこともあるもんだな」
「うっさい。じゃあ飲むな。あたしが飲む」

今さっき置いたばかりのコーヒーカップをもう一度持ち上げようとすると、その手を棚橋に掴まれる。
瞬間、雨宮の心臓がドキリと跳ねた。

「飲むから置いとけ」
「棚橋のくせに偉そうなんだよ」
「うっせ」

そうして棚橋はまた書類に戻る。
雨宮はそんな棚橋をボーっと見やり、くるりと踵を返すとドアに向かった。

「教室戻るのかー?」

あくまでも書類を見たまま、棚橋が声をかける。
雨宮はその問いには答えず、ぴしゃりとドアを閉めて出て行った。

「ったく」

雨宮のいなくなった保健室で、棚橋は一人苦笑した。





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