最終話

「んっ……んぅ……はぁっ……」

何度も、何度も、何度も。
その柔らかい唇を奪う。
どれだけしても足りない。
もっと、もっと。もっと、だ。

あれから俺たちは、マスターに声をかけ、恥ずかしくなるほど早急に、俺の部屋にやってきた。
ほとんど荷物の整理は終わっていて、そこにはただベッドとテーブルとソファーがあるだけだ。
そんな何もない部屋で、俺は紗友里を抱き寄せ、キスをした。

「先生……先生……っ」

俺にしがみつきながら、降ってくる口づけに応える紗友里。
そんな姿がたまらなく愛しく、狂おしいほどに胸をえぐられる。

「本当は、初めて会った時から好きだったんです……っ」

唇が離れた一瞬の隙に、紗友里がそんな言葉を零した。
俺はぴたりと動きを止め、真っ直ぐに紗友里を見つめる。
紗友里も、もう逸らしたりはしなかった。

「俺は、お前のように綺麗な気持ちでお前を見ていない」

ただこうしてキスをしているだけじゃ、とても満足出来ない。
今すぐに抱きたい。
本当はずっとそう思っていた。

「……私だって、先生が思っているような感情で先生を見ているわけじゃありません」

そうして今度は紗友里から唇を重ねてきた。
その唇が離れると、俺は紗友里の腕を引き、ベッドへと向かう。
紗友里は、抵抗しなかった。
トン、とその肩を押し、紗友里をベッドに寝かせる。
長い髪が広がる。
その一房を掬い、口づける。

「お前を、奪ってもいいんだな?」
「はい……」

その返事を得るか得ないか、俺は紗友里に覆い被さった。
乱暴に服を脱がせる。
紗友里はやはり抵抗しなかったが、そっと俺の頬に自分の手を当てた。

「どう、した……?」

柄にもなく不安になって、そう尋ねる。
そうすると紗友里は、穏やかに微笑んで見せるのだ。

「先生のその荒々しさに私は心を奪われました。
今度はその荒々しさで、私のすべてを奪ってください。
でも……でも、出来ることなら。
ほんの少しだけ、優しくしてください」

そんなことを、言われてしまったら。
俺は一体どうしたらいいというのだ。
欲望のままに抱きたい。
紗友里もそれを許容しようとしてくれている。
けれど女性として、優しく扱われたいと思うのもまた彼女の本心で。
また難題を突き付けてきたものだと、俺は心の中で苦笑する。

でも、そういうことなのだろう。
愛するものを抱くということは。
本能で求める。
けれどそこに相手を慈しむ気持ちも持ち合わせなければいけないのだ。

「俺は、お前を全身で感じたい。
同じようにお前にも、俺を全身で感じてほしい」

愛して、いるから。
こんなにも、己のすべてで彼女のすべてを求めているから。
ひとつになりたいと、思う。

俺の言葉を聞いた紗友里は、少し驚いたような表情を見せた。
だがその後すぐに、ふわりと笑う。

「私も、先生を奪っていいということですね?」

これには、まいった。
まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。
奪う側は、俺だけだとばかり思っていたのだが。
でも。

「あぁ、お前にならすべて奪われても構わない」

もう、ほとんど奪われているようなものだが。
そんなことを考えながら、俺はまた紗友里にキスを落とした。

「紗友里……愛している」

露わになった白い肌に、ゆっくりと触れた。



「先生、お願いがあるんですけど」
「なんだ?」

情事の後。
二人寄り添って横になっていた。
俺は何度も何度も紗友里の髪を手で梳く。

「先生のペンネーム教えてください」
「……何故」
「先生の作品を読みたいから」

そういえば、今になって気になり始めた。
何故紗友里は俺のことをずっと「先生」と呼ぶのか。
今まではとにかく紗友里を手に入れたくて、そんなことにすら気が及ばなかった。

「その“先生”というのをやめたら考えてやる」
「……だって私、先生のお名前知りませんもの」

これもまたそういえば、と。
俺は、彼女に名乗ったことなど一度もない。
マスターたちが俺を「先生」と呼ぶから、彼女もそう呼んでいただけの話だろう。
自分に呆れる。

「光司、だ」
「こうじさん?」

また、ドクンと脈打つ心臓。
紗友里に名前を呼ばれた。ただそれだけだ。
それなのに、体が熱くなるのを感じた。

「もう一度、呼んでくれるか」

気が付いたらそう言っていた。
もっと、呼んでほしいと思った。
紗友里に、その口で、その声で、俺の名前を。

「ふふっ。光司さん……愛して、います」

俺の腕の中、上目遣いの紗友里が囁くように言った。
熱は、一気に頂点へ。
俺は紗友里の体を押し倒していた。

「お前に、お前にだけ、渡したい作品がある」
「え?」

そう言いながら俺は紗友里の首筋に顔を埋めた。
鎖骨を舌でなぞると、紗友里が声を上げる。

「お前から生まれた言葉たちだ。お前の元に還すのが、一番いいんだろう」

誰にも読ませる気はなかった、あの作品。
不本意ながら葉子には読まれてしまったが。
それでもあれを捧げるとするならば、相手は紗友里しかいない。

「んっ……私から生まれた言葉って、なんですか?」

俺から与えられる刺激に耐えながら、紗友里は質問を返してくる。
その姿は本当に美しく、今こうしてる間にも俺の頭の中にはいくつもの言葉が浮かんでいた。
すぐに紙に書き落さなくても、この言葉たちは消えないだろう。
それほど強い印象を持って、俺の元に降りてくるから。

「初めて会った時から、お前を見ると言葉が浮かぶ。
そんな存在は、初めてだった。
俺にとってお前は、特別なんだ」

紗友里の存在は、男としても作家としても、俺に色々なものを呼び起こす。
こんな女は、本当に初めてだ。
特別以外の何物でもない。

「嬉しい、です。早く、読んでみたいな……」

紗友里の言葉に俺はただ微笑んで見せる。
あの作品を渡すのも、確かに大事だ。
でも今はそれより……。

「お前が、先だ」

どこまでも溺れたい。
紗友里の、すべてに。



「出版するつもりも何もなかったからな。データでしか渡せないんだ」

そう言いながら俺は、あの作品が入ったUSBメモリを紗友里に差し出す。
紗友里はそれを本当に嬉しそうに受け取った。

「家に帰って、ゆっくりと読みます」

メモリをぎゅっと握り締め、俺を見上げ、笑う。
俺はそんな紗友里にまたたまらなくなってキスをしてしまう。

「光司さん……。いつ、引っ越してしまうんですか?」

途端に真剣な表情になった紗友里が尋ねてきた。
俺は苦笑するしかない。

「……明日だ」
「えっ?!」

この部屋にあるものはあとで送ってもらえるように既に手配されている。
俺は簡単なものを持って明日、地元へと帰るだけだ。

「そんなっ、急すぎます!!」
「すまない。本当に、最後の挨拶に行ったんだ、今日は」

まさかこんなふうに紗友里を手に入れることが出来るとは思っていなかった。
期待していなかったと言えば嘘になるが、無理であると、思っていた。
紗友里の前から姿を消して、ただ静かに、作家として生きていければいいと。

「落ち着いたら、迎えにくる。それまで、待っていてくれないか」

俺がそう言うと、涙を浮かべた瞳がこちらを見上げていた。
この顔には、心底弱い。
別に慌ててしまうとか、そういうことではなく。
欲情、するのだ。
紗友里のこういう表情は、確かに俺の熱を高める。
奪い去ってしまいたくなる。欠片も残らないように。
こんなときにまでこんなことを考えてしまう自分はおかしいのだろうか。

「必ず、必ずですね? 私は、待っていていいんですね……?」
「あぁ。お前はもう、俺のものだからな」

俺がそう言うと、紗友里は少し訝しげな表情になる。
そして少し小さな声で言うのだ。

「私は、物じゃありません」

それは、以前にも聞いたことがあった。
あのときは、明らかに拒絶の色を含んだそれだったが、今は違う。
それくらいは、俺にもわかる。

「俺は、お前のものだぞ?」
「なっ……」

俺の発言に紗友里はただ顔を赤くした。
何も言えない彼女が愛しくて、俺はまたキスという行為へ体を動かしてしまうのだ。

「お前にすべてを奪われたからな」
「光司さん……」
「待っててくれ。必ず迎えにくる」
「はい、わかりました……」

そうして俺たちは、一時の別れを惜しんだ。



引っ越してから1週間が過ぎていた。
もちろん仕事は変わらずに続いていたから、荷物を片付ける暇もなく、ただただパソコンに向かって仕事をしていた。
原稿を書き上げては編集にデータを送る。その繰り返した。
当然葉子ともそのやりとりはあった。
彼女はいつも俺を気遣う文章を入れたメールを送ってくれる。
それは、本当にありがたかった。

「さてと、一息つくか」

メール画面を閉じ、席を立つ。
テーブルの上に無造作に置かれたインスタントコーヒーを手に取る。

「やっぱり物足りないな」

自分で淹れたコーヒーを飲みながら呟く。
マスターの淹れたコーヒーを思い出していた。
そしてそれと同時に、彼女のことを。

「ふぅ。もう少し余裕が出来ればいいんだけどな」

ありがたいことに、仕事はどんどん増えた。
食事もろくに取らずに執筆作業に没頭しているときもある。
当然、紗友里を迎えに行くことも叶わない。

俺たちは、連絡先を交換することもしなかった。
下手に連絡を取っていると、仕事が手につかなくなりそうだったからだ。
いつか迎えに行く。
その約束だけで繋がろうとするなんて無謀にも程があるが、それでも紗友里は頷いてくれた。

「紗友里……」

彼女の名前を口にする。
1週間前、この手に抱いた紗友里を思い出した。
目を閉じて、頭の中でその身体のラインをなぞる。
そんなとき。
ピンポーン、という間抜けな音が、俺の妄想を掻き消した。
その音はもちろんインターホンの音で。
それはこの部屋に誰かが訪ねてきたことを示している。
だが、誰だ?
不思議に思いながら玄関へと歩いていく。
ドアノブを回し、少しだけ開けた。
そして、視界に飛び込んできた姿に俺は目を見開いた。

「光司さんっ!!」

まさか。
どうしてこんな所に?
軽いパニックを起こす。
俺の見間違いでなければ、そこにいるのは、俺が今一番欲しているものだ。

「紗友里……?」

彼女にここの住所を教えた記憶はない。
なのに何故彼女はここにいるんだ?

「入っても、いいですか?」
「あ、あぁ」

そのまま彼女を部屋に招き入れる。
よく見ると、紗友里は両手に大きな荷物を下げていた。
彼女は俺の部屋を見て固まった。

「全然片付けていないんですね」
「仕事が忙しくてな。暇がない」
「じゃあ、ちょうどいいですね」

ちょうどいい?
一体なんのことだ?
紗友里が何を言っているのか、俺にはさっぱりわからない。
そもそもどうして紗友里がここに来たのか、だ。
それに何故、彼女はこんなにも大荷物でここに来たんだ。

「どうしてここに?」
「あの人に……葉子さんという方に、お聞きしました」

葉子に?
また別の作家との打ち合わせであの店にでも行ったんだろうか。
それにしたって何故ここの住所を?

「あれを、読みました」
「あれ?」

紗友里は、見覚えのあるUSBメモリを取りだす。
それは俺があの日紗友里に渡したもの。
あの作品が入っているものだ。

「どう、して? どうしてなんですか……?」

彼女が俺に何を尋ねているのかがわからない。
だから、その「どうして」には答えようがない。
俺が黙っていると、彼女は続けた。

「このお話の二人は、私たち、ですよね……?」

泣きそうな顔で、そう言う。
そして紗友里は俺に近づき、俺の胸に顔を埋めた。

「どうして、このお話のヒロインは、彼以外の人と……?」

そう、あの話は、男の失恋話だ。
最後の最後まで、ヒロインは男の気持ちを受け入れることはない。
それが、彼女に今こんな顔をさせている原因なのか?

「迎えに来てくれるという貴方の言葉を、信じていました。
でもこれを読んだら、貴方はもう二度と私の前に現れないんじゃないかと思って……!!」

なんとなく、わかった。
別れ際、あの作品を彼女に残していった。
そしてその作品は、結ばれない二人の話だ。
まるで自分たちもそうなるのではないかと、彼女はそう思ったんだろう。

「あれを読んで、貴方にさよならを言われたような気がして、私……っ」

そうしてついに彼女は泣き出す。
俺はそんな彼女をそっと抱きしめた。
まるで子供をあやすように、その背中をさする。

「違う。そんなわけないじゃないか。あれは、フィクションだ」
「でも……」
「バカだな。言っただろう? 俺はもうお前のものだと」

この心も、身体も。
すべては紗友里のためにある。
バカバカしくも本気で、そう思っているから。
必ず迎えに行くという言葉は、間違えようのない本心だ。

「お前、それで葉子から俺の居場所を聞いてここまで来たのか?」
「だって! じっとしていられなかったんです……」

嬉しかった。単純に。
そうまでして、俺を離すまいとしてくれた彼女のその行為が、想いが。

「それで? そんな大荷物で来たってことは……お前はここに住む気か?」
「……ダメですか?」
「マスターたちには?」
「ちゃんと了解を得てきました。それで色々とあって、1週間もかかってしまったんです」

その色々が気にならないわけではないが、それはまぁよしとしよう。
今目の前に紗友里がいる。
それ以上に大事なことなどないはずだから。

「もう、貴方と離れたくありません。私は、貴方のものなのだから」

ぐっと俺の背中に腕を回した紗友里が小さく呟く。
俺はそんな紗友里を抱きしめ返した。

「迎えを待てず、こんなとこまで来るとはな。本当にお前には驚かされる」
「呆れましたか?」
「……いや、今すぐ抱きたくて仕方ないくらい愛しいよ」
「もうっ!!」

小さく怒って見せる彼女に、俺は1週間ぶりのキスをした。
もちろん、そのまま紗友里のすべてに溺れたのは言うまでもない。

こうして俺は、自分が一番欲していたものを手に入れた。





Fin


あとがき









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