第七話

「え、引っ越す?」
「あぁ。だから今後は原稿はデータをメールで送る」

つい先日、俺は引っ越し先を決めてきた。
もう何年も帰っていなかった、地元で。
それを告げると、葉子はまず驚き、その後表情を歪ませた。

「葉子には色々と世話になった。まぁ、これからもなるけどな」
「やめてよ……」

これからも作家と担当編集者という関係は続いていく。
だが、会うことはもう滅多になくなるだろう。
俺たち二人の関係も、そろそろリセットすべきときに来ている。

「私も、ついてっちゃダメ……?」

葉子がそう言い出すことは、予想していた。
だから、俺の答えももう決まっている。

「ダメだ」
「光司……」
「もう、お前に甘えるのは、終わりだ」
「私はっ!」

何かを言おうとする葉子の口をキスで塞ぐ。
久しぶりのキスだった。

「どうして、今更……」
「ごめんな」

小さく謝れば、葉子は俺の胸に顔を埋めた。
俺はそんな葉子をぐっと抱き締める。
これが最後だと、心の中で呟いて。

「あの子に、会いに行くの?」

俺の腕の中、葉子がぽつりと言った。
体を離し、どういうことかと葉子を見つめる。
葉子は俺から視線を外しながら続けた。

「この間、あの子に会ったわ」

葉子が言う“あの子”とは、どう考えても紗友里のことで。
どうして葉子が紗友里と?
一体どういうことなのか。

「担当している別の先生に指定されて行ったお店に、いたのよ」
「まだ、あの店で働いてるのか……」

そうか、と口の中で呟く。
まだ、あの店に紗友里はいる。
今もあの頃と同じように、Tシャツにジーンズ、その上にオレンジのエプロンという格好でいるんだろうか。
初めて見たときの紗友里の姿が、鮮やかに思い出された。

『先生! いらっしゃいませ!』

俺を出迎えてくれた、あの明るい声。
今も、あんなふうに色々な客を毎日迎えているのだろうか。
こんなにも、俺はまだ、こんなにもはっきりと彼女の姿を思い出すことが出来る。
忘れてしまおうと思ったことだってある。
それでも、自分の心の内に棲むものを取り除くことは決して出来はしなかった。

「先生はお元気ですか、って言われたわ」
「俺の、ことを?」

彼女はまだ、俺のことを気にしてくれるのか。
こんな、俺のことを。

「気になるなら……会いに行けばいいのよ、自分の足で。
……あの子も、貴方もよ」

そう言って葉子は俺から離れる。
俺のその言葉を黙って聞いていた。
葉子の声は確かに耳に入っている。
だけど頭の中は、紗友里で埋め尽くされていく。

逢いたい。

ここを離れれば、きっともう二度と会えはしない。
一生、会うことはないだろう。
それで、いいのか、本当に。
俺は、この燻ったままたの感情を抱えながら、これからも生きていけるのか。

「荷物の整理なんかは手伝うわ。いつでも呼んで」

バッグを手に取り、葉子は言う。
ゆっくりとドアの方へと歩いていくその背中を俺は目で追っていた。

「私はこれからも貴方の担当だし、二度と会えないわけじゃないし。
それに私は……会いたかったら会いに行くわ。貴方達と違ってね」

振り向いた葉子は、俺に向かって笑いかける。
妖艶で、だけどまるでどこか幼い少女のようなその微笑みに、俺は目を奪われた。
こんな表情をする女だっただろうか、この葉子という人間は。
俺は今まで、本当にまっすぐに葉子を見たことがなかったのかもしれない。
このとき俺は、初めてそのことに気がついた。



「はぁ……」

ドアの前。俺は溜息をついた。
少し前までは、何も考えることなくこのドアを開け、店の中に入っていた。
もうあれからどれくらいの時間が過ぎただろう。
ここで飲んだコーヒーの味も、もう忘れてしまった。

「はぁ……」

もう一度、溜息。
らしくないと自分でも思う。

ここに来たのは、もちろん紗友里に会いたかったからだ。
もう一度会いたかった。
会って、話がしたかった。
それに、マスターには随分世話になった。挨拶くらいはしておきたい。
と、付加価値をつけることで、どうにか店に入ろうとしてみるが、上手くいかない。

「あら? 誰かと思えば先生じゃないの?」

そんな声が聞こえてきて、俺は振り返る。
そこには小さな子供を抱いた女性がいた。
俺はこの人を知っている。会うのはかなり久しぶりだったが。

「……お久しぶりです」
「本当に久しぶりね! 元気にしていた? あ、私子供産んだのよー」

明るく笑うその人は、マスターの奥さん。
俺のことは、マスターから聞いていないのだろうか。
以前と変わらないその態度に、そんなことを思う。

「今日はどうしたの? もうずっと姿を見てなかったけど、何かあった?」
「引っ越すことに、なりました。もうこちらに帰ってくることはないと思うので……ご挨拶に」
「えぇ?! そうなの?!」

大袈裟に、彼女は驚く。
この人はいつもこうだった。
大きなリアクション。だけど別に癇に障ることもない。
根っからの性格なのだと、素直に受け止められる。

「それじゃあ最後にうちの人のコーヒー飲んでいってよ!」

そうして彼女は、俺がいつまで経っても開けることの出来なかったそのドアを、開けた。
カランカランと、あの音が俺の耳に届く。
そして。

「いらっしゃ、あ、おかえりなさい!!」

その声が、した。
聞き間違えようのない、それ。
彼女の、紗友里のものだ。

「ただいま紗友里ちゃん! ねぇあなた! 先生が来てくれたわよ!!」

大きな声で、奥さんは店に入っていく。
ドアは開け放たれたまま。
俺は足を動かすことが出来ずにいた。
それどころか、店の中に目を向けることすら出来なかった。

「先生? 何してるの?」

奥さんに呼び掛けられて、俺は咄嗟に顔を上げる。
そうして、目が、合った。

「せん、せい……」

小さく、紗友里の口が動く。
大きく見開いたその目に、今、俺はどう映っているのだろうか。
紗友里は、やはりあの頃と同じように、Tシャツにジーンズ姿。
違うのは、エプロンの色が淡いピンクになっていたこと。
俺はすぐにいつか見たワンピース姿の紗友里を思い出していた。

「よぉ。久しぶりだな。そんなとこに突っ立ってないで入ってきたらどうだ?」

カウンターの奥にいるマスターと目が合う。
マスターに会うのも、随分と久しぶりだ。
だけどマスターは以前と変わらない様子で俺を見ていた。
俺は、もう一度紗友里の方を見る。
すっと逸らされた視線に、苦笑した。
ゆっくりと、店内へと進む。
いつもの、カウンター席。
久しぶりにその席に座ると、妙な懐かしさを感じた。

「元気だったか? 仕事は、順調か?」
「はい。お陰さまで」

変わらないこの場所。
仕事の合間に訪れては、コーヒーを飲み、気持ちを落ち着けた。
ここも、今日で最後だと思うと、途端に寂しさが襲った。
寂しい、なんて、俺には似合わないけど。

「先生ね、引っ越すんですって。それで挨拶に来てくれたのよ」

奥さんが子供を抱いたままカウンターに入る。
彼女の言葉に、マスターが驚いた表情を見せる。
そしてそれと同時。

「えっ?!」

小さな声が、後ろから聞こえた。
俺は、ゆっくりとその声を振り返る。
両手で口を覆った紗友里。
そんな彼女に、俺は精一杯の笑顔を向けた。

「マスターにはお世話になったので、最後にご挨拶に伺いました」

マスターに向き直り、俺は頭を下げる。
すると、一杯のコーヒーが出てくる。
久しぶりの香りだ。

「どこへ、引っ越すんだ?」
「地元に。もう何年も帰っていませんでしたが……あちらの方が執筆活動をするにはいい環境ですので」

俺の地元は、まだまだ昔の風習が残るような田舎だ。
それでも自然はたくさんあって、今なら「いい所」だと言える気がした。
窮屈だったあの場所を出て、もう十年が経っていた。

「そうか。寂しくなるな」

マスターが目を細める。
そう言ってもらえることが嬉しかった。

「おい、お前出かけてて疲れただろう? 少し上で休んでこいよ」
「え? あぁ、そうねぇ」

突然、マスターが奥さんに声をかける。
別にそれをどうと思う様子もなく、奥さんは言われた通りに2階へと向かった。
腕に抱く子供に穏やかな笑顔を見せながら。

「俺はちょっと仕入れの確認をしてくる。紗友里、一旦準備中のプレート出しといてくれ」
「は、はい」

そうして紗友里はマスターから小さなプレートを受け取り、外へ出ていく。
俺がここに通っているとき、マスターが客がいるのに店を閉じることなんて一度もなかった。
一体何が起きているのかわからないまま、俺はただ座っていた。

「ここを離れるのなら、ちゃんと、けじめをつけていくといい」

呆然とする俺に、マスターはただ一言そう言った。
そしていつものようににかっと笑い、奥へと消える。
それと同時にカランカランという音が聞こえて、紗友里が戻ってきたのだとわかる。
俺は席を立ち、紗友里の元まで歩いた。

「久しぶりだな」
「そうですね……」

ぎこちない、やりとり。
紗友里は俺と目を合わせようとはしない。
だけど俺は、もう逸らす気はなかった。

「紗友里」

名前を呼ぶと、彼女ははっとしたように顔を上げた。
すかさず俺は、その唇に自分のそれを重ねる。
わずかな、一瞬だけ。

「もう一度、こうしてお前に触れたかった。
あの日から、一日だってお前を思い出さない日なんかなかった。
逢いたかった。どうしようもなく」

そう告げると、紗友里の目からボロボロと涙が零れ落ちる。
泣かせてばかりだな、俺は。

「わた、しも……逢いたかったです……」

流れる涙を拭うこともなく、紗友里はそう言った。
そうしてふわりと、俺の胸に身体を寄せる。

「もう、会えないんですか……?」
「そう、だな。こちらに来ることはほとんどなくなる」

最後の別れのつもりでここに来た。
だけど、その姿を見てしまえば最後。
この女を離したくないと思う自分がいる。
今すぐに、攫ってしまいたい。

「そんなの、イヤ、です。私、私……先生が好きです……!!」

突然の、告白。
何故、今それを?
ますます決心が鈍ってしまう。
そう思うのに、子供みたいに喜んでしまいそうな自分もいる。
紗友里の口から、俺が好きだと、聞けた。

「紗友里」

もう一度名前を呼んで、こちらを向かせる。
俺を見上げる瞳は、涙で一杯になっていた。
そっと指で拭って、もう一度、口づける。

「言ったはずだ。俺のお前に対する気持ちは、好きなんて、そんな陳腐なものじゃないと」

こうしてる間にも、俺を覆い尽くそうとする凶暴な感情。
今すぐこの場で、紗友里を抱きたいとすら、思う。
それが出来ないのは、それをしてしまえば、きっともう二度と紗友里を手にすることが出来なくなるからだ。

「お前のすべてがほしい。お前を……心から愛している」

ぐっと、紗友里を抱き寄せた。
何度も、何度も口づけを落とす。
紗友里は泣きながらそれに応えた。
何も考える余裕はなかった。
ただ、こうしていたかった。

「せん、せい」

キスの合間、紗友里が俺を呼ぶ。
俺はそっと紗友里の頬に触れた。

「私を、攫ってください……。私を、奪って、ください……」

お前がそう望むのなら、お前のすべてを、俺は奪うだろう。







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