第六話

あれから、どれくらい経っただろうか。
俺は、以前と同じ生活をしている。
定められた締め切りを破ることなく原稿を上げ、それを葉子に渡し、また次の原稿を書く。
葉子とも、以前のような関係だ。
が、身体を重ねることはなくなった。
出来なくなってしまった、と言った方が正しい。
それでも葉子は、俺から離れようとはしなかった。
作家と編集者という関係でも、一番近くにいられるのなら構わない、と。

紗友里とは、一度も会っていない。
俺は店には行かなかったし、彼女も宣言通り俺を訪ねてくることはなかった。
仕方がないことだ。
そう、何度も自分に言い聞かせている。
俺のしたことは、つまりそういうことだ、と。

「よし。やっと……完成したな」

パソコンの画面を見ながら、呟いた。
随分と時間がかかってしまったが、あるひとつの作品が完成した。
何度も何度も手直しをして、ようやく。

「先生、原稿取りにきました」

ガチャっと音がして、ドアが開いた。
それと同時に聞こえていたのは、葉子の声だ。
いつも通り、原稿を受け取るまでは俺のことを「先生」と呼ぶ。

「そこのテーブルに置いてある」
「……何か書いてるの?」
「いや、今完成したところだ」

そう答えたところで、隣に葉子の気配を感じる。
俺はすぐにパソコンの画面を消した。

「なんで消すのよ」
「さぁ」
「もしかして他の出版社に出すやつ?」
「違う。これは、出版するつもりはない」

この作品は、世に出すことは一生ない。
ただ静かに、俺の元で眠るだけだ。
誰の目にも触れることなく。

「どんなお話?」
「言えない」
「何それ」

そう言いながら、葉子は深く突っ込んでくる気はないようだった。
もしかしたら、察したのかもしれない。
何を、というわけではないが、この作品の陰に何かがあることを。
そしてそれは、俺たちにとっては触れてはいけないものだということを。

「ねぇ、今日晩御飯作りに来ていい? この原稿持って帰れば今日の仕事終わりなの」
「あぁ、構わない」

そう返事をして、俺はキッチンに立つ。
グラスに水を注いで、一気に飲み干した。
作品を完成させた高揚感を、少しでも覚ましておきたかった。
そうしなければ、今すぐにこの部屋を飛び出してしまいそうだった。

「じゃあ……また後でね、光司」
「あぁ」

葉子が部屋を出ていって、俺はベッドに横になった。
仰向けになってボーっと天井を見る。
思えば作家としてデビューしてからここに引っ越してきて、その後一度も引っ越すことはなかった。
それまでは割と転々としていたというのに。

「そろそろ、引っ越すか」

あの作品も完成した。
ちょうどいいきっかけなのかもしれない。
もう一度、新しく始めてみるのもいい。

「ここにいたら、思い出すし、な」

あれから一度も会っていない彼女。
それなのに、俺の中には未だにあの凶暴な感情が棲んでいる。
彼女のすべてがほしい。
今も、そう願ってやまない。
あのとき、強引に奪っていたら。
そう考えないこともないが、それではきっと本当の意味で彼女を手に入れることは出来なかったんだろう。

「どうして、いるんだろうな」

今もあの店にいるんだろうか。
そろそろ奥さんが復帰しているかもしれないから、もう辞めてしまっただろうか。
会いたい。逢いたい。
許されることならもう一度会って、抱きしめたい。
今度こそ、二度と離さないように、強く、強く、壊れるほど強く。

「紗友里……」

その名を呟いて、俺は夢の中に堕ちていった。



「ん……」

目を覚ますと、外はもう真っ暗だった。
部屋の電気もついていない。
なのに、煌々と明るい光が俺の視界に入ってくる。
それは、パソコンの光だった。

「よう、こ?」

パソコンの前に座っている人物。
光がまぶしくてよく見えないが、この部屋にいるのなんて葉子くらいだろうと思い、その名を呼ぶ。
が、すぐにはっとして俺はパソコンへと走った。
と言っても狭い部屋だから、2、3歩の話だが。

「葉子っ!」

椅子に座る葉子の肩を掴み、ぐっと引く。
彼女は、泣いていた。
パソコンの画面を見ると、そこに映し出されているのは、やはりあの作品。

「なんで勝手に……」
「見ちゃ、いけないって思った。でも、気になって気になって仕方なくて……」

葉子はそこまで言って顔を覆った。
肩を震わせて泣く。

「見なきゃよかった……。こんなの、知りたくなかった……」

俺には何も言えなかった。
葉子を抱きしめてやる腕も、もう俺は持ち合わせていない。
ただ、泣き続ける葉子の側に立っていた。



葉子が読んだもの。
それは、俺が紗友里に出会って、紗友里から浮かんだ言葉たちを集めて書いた作品だった。
内容は、一人の男がただひたすらに一人の女を愛する話。
俺が生まれて初めて書いた、恋愛小説だ。
手の届かない所にいる女を、男はただただ想い続ける。
壊れそうなくらいに愛しているのに、女は男を見ない。
それでも男は、狂気とも言えるその感情と共に、一生を生きていく。
女は、そんな男の想いを受け入れることはなく、違う男と愛し合い、幸せな家庭を築く。
男の、失恋話。

「どうせなら、作り話の中でくらい、手に入れてしまえばよかったのにな」

自分で書いたものながら、笑ってしまう。
男に重ねたのは自分の心。
女に重ねたのは紗友里の面影。
自分でどうにでも出来る世界だ。
紗友里を重ねた女を、自分を重ねた男が手に入れる話だって、当然書けた。
でも俺は、それが出来なかった。
それをしてしまえば、俺はもう二度と、紗友里を手に入れることが出来なくなりそうな気がしたから。

「この期に及んでまだ、望みを捨ててない俺もバカだな」

自嘲して、ベッドに身を沈める。
葉子はあの後黙って帰っていった。
彼女をあてにしていた夕食は当然ない。
だが腹は減っていなかった。
俺はただ、紗友里のことを想っていた。
愛しくてたまらない、彼女のことだけを。







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