第四話

あの日、紗友里を部屋に連れ込んだ日から、既に1ヶ月が過ぎていた。
もちろん俺は店には行っていない。
かれこれ3ヶ月、あの店のコーヒーを飲んでいない。
俺はただ、黙々と文章を綴っていた。
紗友里のことは考えないように、ただひたすら、パソコンに向かった。

「先生、原稿受け取りにきました」
「……あぁ」

いつものように葉子がやってくる。
先程書き上げた原稿データを葉子に渡した。
そしてそのまま、その腕を引く。

「きゃっ」

小さく声を上げた葉子が俺に倒れかかってくる。
俺はその身体を抱きとめた。
葉子から香る、女の匂い。
紗友里とは違う匂い。
そこまで考え、俺は頭を振る。

「光司? どうしたの?」
「なんでもない」

そのまま二人、ベッドへなだれ込む。
あとはもう、欲望のままに。



「ねぇ、光司」
「なんだ」
「あら、返事するなんて珍しい」

葉子のその言葉で、俺は押し黙る。
頭の上からくすくすと笑う声が聞こえる。

「女は、誰しもきっと奪われたいと思ってるのよ。
強引に、さらってほしいと思ってるものよ」

突然、何を言い出すのか。
俺は葉子に背を向けたまま横になっていた。
そんな俺のことはお構いなしに、葉子は続ける。

「でもね? 女はいつまで経っても女なの。
大切にされたいのよ。大事にされたいの。
お姫様のように扱ってほしいときだって、あるのよ?」

そうして葉子は俺の背にぴたりと寄り添う。
彼女の頬がひやりと冷たかった。

「貴方の、私の全部を奪ってくみたいな行為は好きよ? でも……同時にすごく虚しくなるわ」

俺は寝返りを打ち、葉子の頬に触れる。
そんなことをしたのは久しぶりな気がした。
いつも、ただ欲望のままに抱いて、別れる。
葉子もそれでいいと思っていた。
自分たちはそういう関係なのだと。

「気持ちよくないってことか?」
「……ほんっとにバカね。そういうことじゃないわよ」

心底呆れたように、葉子は言う。
俺は葉子の頬に触れた手をそっと耳の方に滑らせる。
その手に葉子が自分の手を重ねてきた。

「気持ちよくさせようとすることと、大事にするってことはまったく違うの。
貴方ってほんと相手を思いやる気持ちに欠けてるんだから。
その強引さに惹かれたのも事実だけどね」

葉子が何を言いたいのか、本気でわからない。
一体俺に何を伝えたいんだ?
これは俺に対する文句だと思っていいのか?
そんなことをぼんやりと考えていた。

「私はね、光司に触れられるだけで幸せなのよ。
今こうして、光司の手のぬくもりを感じていられるだけで嬉しいの」

そう言いながら葉子は目を閉じる。
俺の手に自分の手を重ねたまま。
そっと、葉子から手を離す。
そしてそのまま、葉子の肩を押した。
ゆっくりと彼女に覆い被さる。
そしてもう一度、頬に触れる。
頬から首、鎖骨へ手を這わせる。ゆっくりと。葉子のぬくもりを感じ取るように。

「こんなふうに触れられるの、初めてね」
「こうしてほしかったって、ことか?」

彼女は答えなかった。
その代わり、穏やかに微笑み、俺の首に腕を回した。
そしてぐっと引き寄せる。
そのまま俺は葉子に口づける。
ただ、触れるだけのキス。
もう一度、触れる。
今度は、舌を絡める。ゆっくりと。

「んっ……こう、じ……」

俺を呼ぶその声が、いつもよりずっと艶やかに聞こえた。
どくんと、俺の心臓が高鳴る。
瞬間、俺の頭にあの日の彼女が甦る。

『私は、物なんかじゃ、ありません』
『それでも先生は、私を物として扱いますか……?』

彼女、紗友里も、もしかしてこれが言いたかったのか?
ただ、奪われるだけの物では嫌なのだと。
女として、大切に扱われたいのだと。
ドクドクと血が脈打つ。
あの日の紗友里のぬくもりまでが、甦ってきた。
それと同時に、俺の熱が上がる。

「光司、光司……」

俺の下で、俺の名前を呼ぶ女。
彼女じゃ、ない。
けれど、俺を心底愛してくれる、女。
妖艶な身体を持つ、大人の、女。

俺は、そのまま葉子の身体に沈んだ。
いつもとは違う俺で、いつもとは違う葉子の中に、溺れていった。
まさかそれを、彼女が見ていたなんて知る由もなく。



「いらっしゃいま、せ……」

途中までは元気よく明るい声だったのに、俺の姿を捉えた瞬間、それは曇った。
鋭い視線が向けられている。俺に。
じっと俺を見る彼女を無視して、俺はいつものカウンター席に座った。

「随分とご無沙汰じゃないか」
「……すみません」

マスターと言葉を交わす。
少し気まずいのは、あの日のことがあるからだ。

「常連客が来ないと寂しいもんさ。またちゃんと通ってくれよ?」
「……はい」

そうして出されたコーヒーを飲む。
後ろで人が動く気配がするが、振り返ることは出来なかった。
そんな俺を、マスターがじっと見ていることに気付く。

「なん、ですか?」
「あの日……あんたに連れて行かれた日。紗友里は泣きながら帰ってきた」

どくんと、心臓が脈打った。
マスターは至って真剣な表情で、紗友里には聞こえないように声をひそめた。

「何があったか聞いても何も答えやしない。
それでも次の日には、いつものあいつに戻っていた。
ただ、あいつは待たなくなった」

何をだ、とは口に出せなかった。
俺は今口を挟むべきではないと思えたから。
そのまま、マスターの次の言葉を待つ。

「紗友里は、初めてあんたに会ったときからあんたに興味を持っていたらしい。
毎日毎日、あんたが来るのを待っていた。
俺に何か言うことはなかったが、二度目にあんたと会ったときの紗友里を見て、すぐにわかった。
あぁこの子は、先生に惹かれてしまったんだな、ってな」

後ろで動く気配が、さっきよりも強く感じられた。
振り返りたい。
その姿を、この目で捉えたい。
でも、出来ない。

「それなのに、あの日以来あの子は待たなくなった。
まるであんたはもう二度とここに来ないみたいに。
だから、昨日俺はあんたのところにあの子を行かせた」

マスターの最後の言葉に、俺は勢いよく立ち上がった。
昨日? 昨日紗友里が、俺の所に?
知らない、そんなものは知らない。
俺は、紗友里になんて会ってない。

「コーヒーと、軽い食事を持たせた。何ヶ月もここに来なくて心配だから様子を見てきてくれと俺が頼んだ。
でも紗友里はすぐに帰ってきた。俺が持たせたものをそのまま持って。
どうしたと聞けば、行く必要はなかった。邪魔をしてしまうところだったと、あいつは言った」

もしかして、見られていたんだろうか。
葉子と、いるところを。
葉子との行為に、溺れているところを。

「笑いながら泣いたよ、あいつは。
なぁ先生……あんた、あの子のことどう思ってるんだ?」

立ち上がったまま、俺は固まっていた。
どう動くべきなのかがわからない。
頭がまったく働かない。

「叔父さん、私、今日はそろそろいいですか?」

固まったままの俺の後ろから、そんな声が聞こえてきた。
俺は、ようやく後ろを振り返ることが出来た。
彼女と目が合う。

「あぁ、もう上がっていいよ」

マスターの言葉に頷き、紗友里は奥へ歩いていこうとした。
俺は、無意識にその腕を掴んだ。
彼女の驚いた目が俺を見る。

「離して、ください」
「……嫌だ」
「離してっ!」
「嫌だと言ってるだろ!!」

俺が声を上げると、紗友里はびくっと身体を震わせる。
あの日を、思い出しているのかもしれない。

「どうして?! 貴方はどうしていつもそうやって……!!」

途端に、彼女の目に涙が溢れる。
俺はもう何も考えられずに、彼女の腕を引いて彼女を抱きしめた。
そして暴れる彼女を押さえながら、マスターを見る。

「彼女を少し、お借りします」
「……またその子が泣いて帰ってきたら、もう二度とあんたをこの店には入れない」
「……わかりました」

そうして俺は、強引に紗友里を店から連れ出した。







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