第三話

「コーヒーが飲みたい」

一人、呟く。
あの日以来、俺は店に行っていなかった。
もう1ヶ月が過ぎるだろうか。
柄にもなく、恐れていた。
彼女に会うことを、恐れていたのだ。
次に会ったら、俺は自分の気持ちを抑えられないかもしれない。
あの凶暴な感情を、すべて彼女にぶつけてしまうかもしれない。
彼女を、壊すかもしれない。

「はぁ」

珍しく溜息をついた。
“悩む”なんて、俺らしくはない。
いつも、自分の好きなように生きてきたはずだ。
そうしたいと思ったら実行してきた。そのはずだった。
なのになんで俺は、店に行くことが出来ずにいるんだ……。



「え、原稿が出来てない?」
「あぁ、悪いな。もう少し待ってくれ」

葉子が、目を丸くして俺を見ていた。
こんなことは初めてだったからだ。
俺が締め切りを破ることは、まずなかった。

「ど、どうしたのよ。何かあったの?」

明らかに動揺した葉子が俺に近づく。
その手が俺に触れた瞬間、俺はそれを振り払っていた。

「光司……?」

鋭さを持った声。
葉子が何を言いたいのかはわかる。
だが、今は誰にも触れられたくなかった。
どうしようもなかった。

店には、もう2ヶ月行っていない。

「明後日、また来ます」

さっきの鋭さは消えた静かな声で、葉子は言った。
そしてバッグを手に取り、部屋から消えた。
俺は頭を抱えて大きな溜息をついた。



「何やってんだ、俺は……」

なんとか原稿を書き終え、先程葉子に手渡した。
本当はすぐにでも書かなければいけない別の原稿がある。
今書いているものすべてが予定より大幅に遅れていた。
それなのに俺は今、店の前に突っ立っている。
ドアノブに手をかけることも出来ず、ただ、突っ立っている。

「あ、れ? 先生……?」

そのとき、俺の耳に届いた声。
血が、沸騰するような感覚に陥った。
身体はまるで錆ついてしまったかのように上手く動かない。

「来てくださってんですね! しばらくお姿を見なかったので叔父さんが心配していました!」

駆け寄ってくる音がする。
誰が、なんて確認しなくてもわかる。
ギギギ、と音がしそうなほどぎこちなく、俺は横を向いた。
そこには、買い物袋を持った彼女がいた。

「どうぞ中へ!」

彼女はドアを開け、俺を促す。
なんなんだ、一体。
今日は朝からどんよりとした曇り空が広がっている。
それなのに、何故、眩しいと感じてしまうんだ。
俺の頭は、ついにおかしくなってしまったのか。

「先生?」

不思議そうに俺を見上げる紗友里。
気が付いたら俺は、その手を取っていた。
そしてそのまま店の中に入る。

「おぉ、先生じゃないか! 久しぶりだなって……紗友里?」
「マスター、申し訳ない。少し彼女を借りる」
「え? え? 先生?」

紗友里の腕から買い物袋を奪い、すぐそこのテーブルにどさりと置く。
そしてそのまま紗友里の手を引き、俺は店を出た。
突然のことに戸惑った紗友里は、ずっと「先生!」と俺を呼んでいた。
だが、俺はそんな彼女を振り返ることもなく、自分の部屋へと歩を進めていた。



バタン、とドアがしまったその瞬間。
俺は紗友里の身体を引き寄せ、掻き抱いた。
柔らかい。

「せっ、先生?!」
「黙れ」

俺の声に、紗友里の身体がびくっと震える。
俺が、怖いか?
心の中で尋ねてみるが、もちろん返事はない。
ただぐっと腕に力を込めて、紗友里を抱きしめていた。

「お前を、抱かせてくれ」
「へっ?! だっ、えぇっ?!」

夢にも思わなかった言葉が降ってきたであろう紗友里は、俺の腕の中で慌て始めた。
俺はこの身体を離すつもりもなく、ますます腕に力を込める。
紗友里が小さな声を上げる。
痛かったのだろう。それで俺はようやく腕の力を緩めた。

「わっ、私、まだ仕事中なんです!!」
「仕事が終わってからならいいのか」

待てるとは、思わなかったが。
今すぐに、目の前の女を抱きたい。
俺の頭の中はそれしかなくなっていた。

壊したい。壊したい。壊したい。

凶暴な感情が暴れ出す。
この女を壊したい。
ボロボロにしたい。
俺の手で。俺のすべてで。

「先生っ、どうしてこんなっ!!」
「お前が、悪い」
「なっ……!!」

何かを言い返そうと、紗友里が上を向いたそのとき。
それを待っていたと言わんばかりに、俺の体は勝手に動いた。
その、柔らかに唇を、無遠慮に奪った。

「んぅ?!」

今まで触れたどの唇より、柔らかく、甘かった。
ドロドロに酔ってしまいそうなくらい、甘い。
なんなんだ、一体。
この感情を、人は一体なんと呼ぶ?
そんなことを頭のどこかで考えながら、俺は紗友里の唇を貪った。

「はぁ、はぁ、せん、せ……」

唇を離すと、紗友里は大きく肩を揺らして息をする。
濡れた唇が更に俺を煽った。
またすぐに、奪う。

「んっ……んん……っ!!」

舌を絡め取り、俺の熱を紗友里へと移す。
紗友里は必死に抵抗しようとしていたが、そんなものはもう構いはしなかった。
欲しい。
この女のすべてが欲しい。
“征服欲”なんて、そんな可愛らしいものだろうか。
こんなにも荒々しく、止める術などどこを探してもなさそうなこの欲望が。
壊して壊して壊して、それでもきっと満たされず、暴走するばかりであろうこの感情が。

「お前が……欲しいんだ……っ!!」

唇を離すと、紗友里は泣いていた。
泣きたいのは、こっちだ。
一体なんだというんだ。
会って間もない、言葉だってそれほど交わしたこともない女を、こんなにも欲している自分は。
狂っている。
そう、もう俺は、狂ってしまっているんだ。

「俺のものに、なってくれ……」

懇願した。
情けない姿を晒していることはわかっている。
それでも、それでも俺は。

「先生は……私のことが、好き、なんですか……?」

小さな声で、紗友里が尋ねてきた。
好き?
それは、所謂“恋愛感情”というやつか?

「そんなものじゃ、ない」
「じゃあどうしてっ!!」

声を上げた紗友里を、俺はもう一度強く抱きしめた。
足りない。まだ足りない。

「そんな陳腐な言葉で、片付けられるものじゃない……!!」

紗友里が息を呑んだのがわかった。
少しは、お前にも伝わるか? 俺の、この、感情が……。

「私を……自分のものにして、どうするおつもりですか……?」

どうする?
何が、聞きたい?
俺には紗友里の考えることがわからない。

「私は、物なんかじゃ、ありません」

小さな声だが、それでもはっきりと、紗友里は言った。
それは、俺を拒絶するということか?

「それでも先生は、私を物として扱いますか……?」

その声に、何故か俺は怯んでしまった。
俺の腕にすっぽりと収まってしまうくらいのこの女が、何か今までとは違う生き物に感じてしまったのだ。
その隙をついて、紗友里は俺から離れる。

「お店で、お待ちしています。また、コーヒー飲みにいらしてくださいね」

そう言って、紗友里は部屋を出ていった。
俺はただ呆然とその場に立ち尽くす。
腕には、まだ彼女のぬくもりが残っていた。







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