第二話

「ふぅ……」

机の脇に置いてある煙草を手に取り、俺は小さく息をつく。
明日締め切り分の原稿を書き終え、念願の一服だ。
原稿が終わらない内は、煙草は吸わないようにしている。

「行くか」

吸い始めたばかりの煙草をもみ消し、俺は席を立った。



「いらっしゃいませ!」

まだまだ聞き慣れない声。
それが耳に届いて、俺は声がした方に目をやる。
そこには、先日見たのと同じように、Tシャツにジーンズ、その上にオレンジ色のエプロンを着たあの女がいた。

「あ、先生! いらっしゃいませ!」

あの女、紗友里は俺を見て笑った。
手に持っていたお盆を抱え、パタパタとこちらに走ってくる。
俺は黙ってそこに立っていた。

「どうぞ、お好きなお席に」

そう言われて、俺はいつも通りカウンターへと向かった。
マスターが軽く手を上げて笑う。
俺が席について間もなく、いつも通りコーヒーが出てきた。
何も言うことはなく、そのコーヒーを飲む。

「マスター」
「なんだ?」
「彼女はいつまで店にいるんですか?」

紗友里の方にくいっと顎を向ける。
マスターはそれを追って紗友里を見た。
そしてその視線はまた俺に戻ってきて、にやっと笑う。
嫌な笑顔だ。
何かを見透かしたような、そんな笑顔。

「実はな、嫁が妊娠中なんだ。もう来月にも生まれる予定だ。
あいつの産休中は手伝ってもらうつもりだよ」

そういえば、と俺は思う。
まだ紗友里が来る前、奥さんは度々店を空けることがあった。
俺はそんなことは気にせずにいつも通りコーヒーを飲んで帰っていたわけだが。
なるほど。妊娠か。
となると、まだ当分は紗友里はこの店にいるということか。

「彼女は、毎日店に?」

俺のその質問に、マスターはますます嫌な笑顔になる。
多少は苛立ちも覚えるが、まぁどうでもよかった。
俺は今、少しおかしい。

「あぁ、ほぼ毎日な。
……珍しいな、あんたが他人に興味を示すなんて」

さすがに、毎日何人もの客を相手にしているマスターだ。
人の心の機微には敏感なのだろう。
だからこそ、俺も何か言い訳をするわけでもない。

「そうですね。何故か、目を引く」
「俺の妹の娘なんだ。まぁ、妹はもう亡くなってるんだけどな。
父親と二人での生活で、少しでも助けになりたいからと快く手伝ってくれている。いい子だよ」

マスターはそう言いながら紗友里のことを穏やかな表情で見つめていた。
つられて俺も彼女の方に目をやる。
ふと、目が合った。
そうすると彼女はふわりと笑う。
俺の頭の中に、またいくつもの言葉が浮かぶ。

「マスター、紙とペン、お願いします」
「あいよ」

笑いながら、マスターが紙とペンを差し出してくれる。
俺はそれを受け取ってすぐに走り書きを始めた。
こんなにも、言葉が溢れ出ることなんて、そうそうあるもんじゃない。
俺の中で、彼女が特別な存在になりつつあった。
俺に言葉を呼び起こしてくれる、そんな、特別な存在に。



また別の日。
俺は仕事の合間に店へ訪れた。
だが、ドアを開けた俺の耳にその声は届いてこなかった。

「よぉ、いらっしゃい。仕事は順調か?」

マスターが手を上げ、いつも通りの挨拶をしてくる。
ふっと店を見渡すが、やはりその姿はない。
無言のまま、カウンターへと足を進める。

「すまないな、今日は紗友里は休みなんだ」

俺はまだ何も言っていないというのに、マスターはそう言った。
もらったおしぼりで手を拭きながらマスターを見上げると、彼はにかっと笑う。

「今日は大学に用があって行ってくるんだと。早く終わったら来ると言ってたがな」
「そうですか」

いないならいないで、別に構わない。
彼女に会いにここに来ているわけではない。
そうではないはずなのに、何か苛立ちを感じてしまう。

「こんにちは!」

そのときだった。
カランカランという音と共に聞こえてきた、その声。
俺は、振り返りはしなかった。
マスターが出してくれたコーヒーを一口飲む。

「よぉ、紗友里。おかえり。早かったな」
「はい。あ、先生いらしてたんですね。こんにちは」

彼女は俺を見つけて声をかけてくる。
俺はそのときようやく紗友里の姿を視界に捉えた。
今日の彼女は、いつものTシャツとジーンズという格好ではなく、淡いピンクのワンピースを着ていた。
瞬間、俺の喉がなる。
浮かんだのは、言葉、ではなく、邪な感情。

「叔父さん、今から手伝ってもいいですか?」
「あぁ、もちろんだ。着替えておいで」

マスターの言葉に紗友里は「はい」と応え、店の奥へと消えていった。
俺はその背中をじっと目で追っていた。

「今日は、紙とペンはいらないか?」

笑顔のマスターに、俺は首を横に振った。
そしてコーヒー代を置いて席を立つ。
これ以上この店にいてはいけない。
なんとなくそんな気がしたからだ。

「もう帰るのか? せっかく紗友里が帰ってきたってぇのに」
「また、寄ります」

一言そう告げて、俺は店を出た。



「んっ……はぁっ……光司っ……!!」

白い肌に、舌を這わす。
しっかりとした凹凸を楽しみながら、俺は葉子の中に入っていった。

「んあっ!! いい、わ……っ!! もっと……!!」

甲高いその声に煽られながら、俺は律動を繰り返す。
俺の下で揺れる身体。
しなやかなそれは、“女”を溢れさせていた。
このままこの行為に溺れることが、出来たなら……。

「あっ、ダメっ!! 光司っ!! んんんー!!!」

ほぼ同時、俺と葉子は果てた。



「ねぇ、何考えてるの?」

行為を終えた俺たちは、ベッドの中でまどろんでいた。
俺に身体を寄せながら、葉子が言う。
俺は目を閉じて横になっていた。

「久々に抱いてくれたと思ったら、心ここにあらずだったわよ?」

やはり、女は敏感だ。
一度身体を重ねただけでもわかってしまう生き物なんだな。
葉子を抱きながら、俺は違う女のことを考えていた。

「抱きたい女がいるの?」

葉子のこういう物言いは、時にイラつくが、嫌いじゃない。
だが、それだけだ。
こいつが俺に浮かび上がらせてくれるのは、男としての欲だけだった。
それでいいとも思っていた。
たとえ、葉子が俺にどういう感情を持っていようとも。

「お前には関係ない話だ」
「ちょっと、何よその言い草!」

葉子の怒鳴り声を聞きながら、俺は今日見た紗友里を思い出していた。
ワンピースの裾から伸びる、すらっとした足。
いつもはまとめている髪の毛も、今日は下ろしていた。
一体、あの一瞬でどれほど彼女に対して欲情したかわからない。
めちゃくちゃにしたい。征服したい。彼女を、俺の“モノ”にしたい。
凶暴な感情は、何ひとつ言葉なんて与えてくれなかった。

「私、帰るから」

いつの間にか服を着た葉子が大きな音を立てて部屋を出ていく。
俺は黙ってその様子を見ていた。
静かになった部屋で、煙草を一本手に取る。

「ふぅ……」

煙草を咥えながら、机まで歩いていく。
休止中になっているパソコンをつけて、ひとつのファイルを開いた。
まだ未完成なそれをボーっと眺める。
彼女、紗友里を見て浮かんだ言葉たちが、ここには詰まっている。
それは、今までの俺なら使わなかった言葉たち。

「いつから俺は恋愛小説なんか書くようになったんだ」

自嘲気味に呟いた俺は、煙草をもみ消した。







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