第一話

「いらっしゃいませ!」

ドアを開けると、カランカランという音と共に、聞き慣れない声が聞こえた。
思わず俯いていた顔を上げる。

「お好きなお席にどうぞ!」

顔を上げた俺の視界に入ってきたのは、見慣れない顔だった。
誰だ?

この店は、昔からやっている所謂喫茶店というやつで、俺はここの常連だ。
仕事に疲れるとコーヒーを飲みにやってくる。
前に来たのはつい1週間程前だ。
そのときに、この顔は見なかった。

「よぉ、いらっしゃい。仕事は順調か?」

俺の顔を見つけた店長がカウンターの向こうから声をかけてくる。
そんな店長に手を上げて、俺はカウンターの端に座った。

「知らない顔がいますね」
「あぁ、姪っ子だ。嫁がちょっとしばらく店に出れないんでな」

この店は、マスターとその奥さんが経営している小さな店だ。
お世辞にも繁盛してるとは言えない。
客は俺のような常連客ばかりだ。
だがそんな所が俺が気に入ってるところでもある。

「紗友里、お前先生は初めて会うだろ?」

マスターが、見知らぬ顔に声をかける。
くるりと振り返ったそいつと、目が合う。
そしてにこりと笑い、俺の方に歩いてくる。

「こんにちは。初めまして。
少しの間お手伝いさせていただいてる紗友里です」

そう言って頭を下げるそいつ、紗友里。
歳は俺より少し下くらいに見える。
20代前半か。
肌の感じからしてそれくらいだろう。
目は丸く柔らかい印象。
細すぎず太すぎずなちょうどいい体のライン。
控え目に染めた髪の毛は後ろで結ばれていた。

「あ、あの?」

紗友里が怪訝そうな顔で俺を見る。
はっとして目を逸らした。
仕事柄か初めて会った人間のことはじっと観察してしまう癖がついている。
やめようと思ったことはないが、初対面の人間には大抵不審がられる。

「紗友里、それは先生の癖だ。気にするな」

マスターが豪快に笑いながら言う。
それと同時に、コーヒーが出てきた。
俺は注文していない。でも、マスターはいつもこうしてコーヒーを出す。
そして俺は黙ってそれを飲む。

「えっと、先生って? 学校とかのですか?」
「違う。彼は作家なんだよ」
「えっ、そうなんですか?」

何度も何度も、「先生」と呼ぶのはやめてくれとマスターには言った。
けれどマスターはいつものあの豪快な笑い方で、「いいじゃないか」と答えるだけだ。
もう慣れたとは言え、初対面の人間の前でその呼び方はやめてほしいと思った。

「私、本を読むの好きなんです。どんなペンネームでお書きになってるんですか?」

紗友里はそう話しかけてきたが、俺は無視した。
基本的に人と話すのは好きじゃない。
ここに来ても、マスターと一言か二言交わした後は一切口を開かずにコーヒーを飲んでいることがほとんどだ。
マスターの奥さんはおしゃべりが好きな人だが、俺には必要以上に話しかけてこなかった。
俺がそういう人間だと知っていたから。

「紗友里、やめとけ」

マスターが声をかけると、紗友里はただ「はい」と言ってその場を離れた。
ちらりと背中を追うと、先程帰った客がいたテーブルを片付けていた。
Tシャツにジーンズ、その上にオレンジ色のエプロン。
シンプルな服装がやけに似合っていた。
だがあぁいうタイプは、着飾っても相当綺麗になる。
俺はそんなことを考えていた。

「しばらくはあいつに店に出てもらうから、よろしくな」
「あー……マスター、悪いけど紙とペンを」

そう言うと、マスターはにやりと笑った。
そしてすぐ側にあった裏が白いチラシと、自分のポケットからペンを取り出した。

「紗友里を見て何か“きた”か?」

俺はその質問には答えない。
だがマスターはそれを気にしない。
俺はすぐに真っ白なチラシの紙面にペンを走らせる。
思いつくままに、短い文章だったり、台詞だったり、単語だったり。
とにかく頭に浮かんだものをすべて紙に書き出す。
5分程で、その作業は終わった。
ふぅっと息を吐くと、冷めたコーヒーを一気に飲み干す。

「ご馳走様です」

カウンターにコーヒー代を置くと、グラスを洗っていたマスターが顔を上げる。
そして俺が置いたコーヒー代を受け取って微笑んだ。

「今日はもうお帰りかい?」
「えぇ、また来ます」
「毎度どうも」

マスターを軽くやりとりをして、俺は店を出た。




「先生、原稿受け取りに来ました!」

仕事場のドアが開き、うるさいくらいの声が耳に届く。
だが俺はそちらを見ようともせず、パソコンに向かっていた。
先程喫茶店で浮かんだものを、今すぐ形にしたかった。

「先生?」
「原稿データはテーブルに置いてある。勝手に持って行け」

振り返ることなく、俺は早口で言う。
そうすると、足音がこちらに近づいてきた。

「なぁに? また新しい何かが浮かんだの?」

先程までとは違う声色で、俺に話しかけてくるその女は、俺の担当編集者である菊地葉子。
俺の顔のすぐ横に自分の顔を持ってきて、パソコンの画面を覗き込む。

「邪魔するな。原稿持ってさっさと帰れ」
「何よその言い方。彼女が来たっていうのに」
「今はお前も仕事中だろ」
「その仕事中に私と寝たのは誰よ」

葉子とは、もう3年の付き合いになる。
俺の担当になってすぐに、そういう関係にもなった。
この仕事を始めてから、ほとんどの時間を自宅で過ごす俺にとって、異性との出会いは皆無。
そんなときに現れたのが、この葉子だった。
俺より3つ年上の、まさに姉御肌。
俺に気があるのはなんとなくわかった。
俺も、別に葉子が嫌いなわけではなかった。
だから、抱いた。
だが俺は、それ以上の感情を葉子に持つことはなかった。

「ねぇ、光司」

名前を呼ばれても、俺は手を止めなかった。
次から次へと、言葉が浮かんで止まらないのだ。
書けるうちに書かなければ、その言葉たちはすぐにどこかに行ってしまう。

「光司っ!!」

しびれを切らした葉子は、俺の右腕を掴む。
瞬間、俺の中で言葉がひとつ消えた。
そのことに激しく怒りを感じてしまう。
ひとつも、漏らしたくない。
今自分の頭の中にあるものを、すべて形にしたい。
今の俺になら、それが出来る。
だから、それを邪魔されるのは我慢が出来ない。

「邪魔するなっ!!」

葉子の手を振り払う。
今の俺には、今の俺にしか書けないものがある。
今の俺にしか浮かんでこない言葉があるのだ。
誰であろうと、それを邪魔するのは許さない。

「なんなのよっ!! わかったわよ帰ればいいんでしょ!!!」

大声を出すと、葉子は部屋を出ていった。
途中でがさっという音が聞こえたから、原稿を持って行ったんだろう。
最初からそうしてくれればよかったんだ。
そんなことを思ってしまう俺は、人間として最低なんだろう。
でも。

「紗友里、か……」

俺の頭の中には、あの女の姿が浮かんでいた。







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